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矢野口自工株式会社

矢野口自工株式会社 代表取締役 矢野口智一

我々の生活を陰で支えている「特装車」という車をご存知だろうか。ゴミ収集車やダンプカーのように、トラックの荷台部分に特殊な「架装」が施されている車両をそう呼ぶ。その特装車の整備・販売・レンタル、および、特装車を用いた工事と、特装車にまつわるあらゆることに対応できるのが矢野口自工だ。同社では、その中でも特に「吸引車」という車の扱いに長けており、業界においてその名を知らない者はいないと言っても過言ではない。
整備工場として創業してから60余年、着々と事業を拡大してきた同社。今回の取材では、23歳という若さで3代目として社長に就任し、30年以上同社を牽引している矢野口智一社長にお話を伺った。

伝統の継承と、未来への挑戦を可能にする革新企業の本質

まずはやってみるチャレンジ精神

お客様の依頼に対して「まずはやってみよう」という思いが同社の中には根付いている。例えば整備部門で言えば、持ち込まれる特装車は多種多様。加えて、様々な環境で用いられているため、故障箇所もまちまちだ。整備する側からすれば、パッと見で直すのが難しそうだと感じた時、断ることは簡単だろう。しかし、それではお客様が困ってしまう。特装車が1日動かなければ、お客様にとっては大きな損害に繋がる。そのため、少しでも早く復旧して使える状態にすべく、いきなり断るのではなくまずはやってみる。それが矢野口自工のやり方だ。まずはやってみた結果、直せなかったことはほとんどないという。
販売・工事の部門においても同様に、「矢野口自工に依頼してくれた」お客様の期待に応えるために、あらゆる方法を日々考え続けている。創業時から脈々と受け継がれているチャレンジ精神があるからこそ、特装車業界を牽引する存在として成長し続けてきたのだろう。

「四位一体」による、あらゆる角度からのサービス提供

矢野口自工では、特装車を直す、売る、使うだけでなく、貸すことも可能だ。これにより、お客様からの信頼を集め、自社の収益性を高めている。これは、業界内ではかなり珍しいことだという。特に「貸す」にあたるレンタル部門は、かつて実現不可能とまで言われていた。借りる側にとっては特殊ゆえに扱うことが難しく、貸す側にとっては現場作業の中で壊される心配がある特装車。その上高額とくれば、レンタルが容易ではないことが想像できるだろう。
同社では、特装車を自社で使えるからこそお客様にも使い方を教えることができ、自社で直せるからこそ壊されることによるリスクも少なかったのだ。長い歴史の中で全部門を整えた同社は、あらゆる角度からお客様へのサービス提供が可能になった。「直す」「売る」「貸す」「使う」の「四位一体」を実現した同社は、お客様から見て「矢野口自工に頼んでおけばなんとかなる」という頼れる存在であるに違いない。

業界をリードし続ける存在へ

「業界をリードし続ける存在でありたい」、同社の未来について矢野口社長はこう語る。ただしそれは、一社で独占しようという考えとはまた違う。「たとえうち独自のやり方を真似されたとしても、また新しいものを生み出せば良い」という矢野口社長の言葉通り、同社ではこれまでも独自の進化を遂げてきた。例えば、上述した事業の拡大はもちろん、新しい車両の開発も行っている。粉体吸引を一車両で完結できるツインバックは、同社の知恵と経験を結集し、メーカーと共同開発したものだ。また、2018年には特装車を用いた下水管清掃において高い技術を誇るジーエス管業株式会社とグループ化したり、2019年には福島県に新たな営業所を開設したり、その勢いは止まることを知らない。福島県の営業所は広大な土地を有しており、整備工場だけでなく、東日本最大級とも言える塗装ブースも完備している。数々のチャレンジを繰り返すことで業界をリードし続ける同社の今後が楽しみでならない。
独自に開発したツインバック
あらゆる角度からサービス提供が可能
チャレンジの象徴である福島浜通り営業所

次世代へバトンを受け継いでいく

社長就任当時の心境を教えてください

先代である父が急死したことで社長に就任したので、最初は何もわからないところからのスタートでした。入社してから1年も経っていなかったので、まだ「後継者」ということも意識していなかったように思います。周りは年上の方しかいないような状態でしたので、まずは自分が結果を出すんだという思いで、社長業より営業に力を入れていましたね。また、どんなに大変なことがあったとしても、トップとして、弱気な姿は絶対に見せないということを意識していました。決して楽ではない状態ではありましたが、先輩方やお取引先の方々にも支えていただいて乗り越えることができました。

福島進出を果たしたきっかけは何ですか?

元々は東日本大震災の際に、道路除染のために福島に行ったことが始まりです。特装車を使ってなんとかできないかと試行錯誤し、ドイツから特殊な車両を輸入することで道路除染を実現しました。福島では、その後も復興のために多くのトラックやダンプが走っています。そのため、大手ゼネコンさんからの要請も受け、福島に本格的に事業所を立ち上げることを決めたのです。広大な土地を生かして、整備工場の他に東日本最大級の塗装工場もつくりました。今後は、大型の特装車は福島で整備し、都内のお客様でスピードが求められる場合には本社で整備するなど、拠点ごとの特徴を生かして事業を展開していきたいですね。

今後どんな組織にしていきたいですか?

これまで私が先頭に立って引っ張ってきた経緯があるので、社員一人ひとりが主役となって、自分たちで会社を盛り立てていってほしいですね。今、福島やグループ会社となったジーエス管業を任せているメンバーはもちろん、本社でも「自分がやっていこう」という意欲のある若手が増えてきています。彼らが先頭に立つことで、彼ら自身の仕事のおもしろみも増すと思いますし、彼らの魅力で社員が居つくようになると思っています。事業としての強みももちろん大切ですが、それ以上に「人の価値」が最大限発揮されるような組織にしていきたいですね。

伝統の継承と挑戦の未来を担う社員の思い

矢野口自工株式会社 福島浜通り営業所 工場長 赤羽直基

今回取材をさせていただいたのは、新設の福島浜通り営業所の整備工場長を任された赤羽さんだ。専門学校を卒業後、新卒で矢野口自工に入社。「ニッチな業界だからこそ、手に職がつくし、自信にもなる」という思いを持って入社を決めた赤羽さんは、その言葉通りに技術を磨いてきた。後輩はもちろん、上司や他部門のメンバーからも信頼を集めている赤羽さんだからこそ、工場長という大役を任されたのだろう。本取材では、赤羽さんの思いや今後目指していることについてお話を伺った。

伝統の継承と挑戦の未来を担う社員の思い

「トクシュ」だからこそおもしろい

元々自動車やバイクが好きで専門学校に通っていた赤羽さん。同級生の多くは大手のディーラーに就職したという。その中で赤羽さんが矢野口自工を選んだ理由、それは、矢野口自工で扱っている車両の特殊性に惹かれたからだ。特殊であるが故に自分の力を磨ける上に、特殊であるが故に会社としても生き残っていけるだろうと考えて入社を決めた。実際、赤羽さんは入社してから数多くの特殊な車両の整備に携わっている。そこには、いろんなことに挑戦できる環境もあったという。赤羽さん自身、自ら手を挙げて洗浄車という車両の整備を覚え、お客様から直接赤羽さんに連絡がくる程にまで信頼を勝ち取っているのだ。 扱う車両が特殊であるために、専門学校生にとっても馴染みの薄い業界かもしれないが、人と違うことにチャレンジしたい人にとっては最高の環境と言えるだろう。

お客様からの「ありがとう」の重み

整備をし終わった車をお客様が使っている姿を見ると、「自分が直したやつだ」という達成感が生まれるという赤羽さん。そんな時にお客様から頂ける「ありがとう」が、働いていて一番の喜びになるのだ。確かに、どんな仕事でも「ありがとう」と言われることはあるかもしれないが、「『ありがとう』の重みが違う」と赤羽さんは語る。矢野口自工に持ち込まれる車は特殊な車両であるため、代替が効かないことがほとんど。そのため、お客様にとって、1日の故障はそのまま数十万円の損失に繋がりかねない。その状況下で、他社に持ち込んで3日かかっても要因がわからなかったことが、矢野口自工であれば5時間で直せた、という事例もあるというから驚きだ。高いノウハウを持ち、お客様目線で整備を行っているからこそ、お客様から頂ける「ありがとう」の重みが増すに違いない。

「ここに矢野口自工があって良かった」と言われる存在へ

ご自身の目標として、工場長を任された浜通り営業所をさらに発展させ、地域の方から「ここに矢野口自工があって良かった」と言われる存在にまですることを掲げた赤羽さん。目標の実現に向けた2大テーマとしては、効率化と人材育成を考えている。人材育成については、扱うのが特殊な車両だからこそ完全なマニュアル化はできず、OJTが必要だ。その際、実作業はもちろん、「特殊なものを扱うことのおもしろさ」も伝えていきたいのだという。育成が進んだ先には、さらなる効率化も実現し、工場としての売上も上がっていくだろう。土地だけで言えば本社の20倍近くの面積がある浜通り営業所で、まずは本社以上の売上を出し、そしてお客様に提供できるサービスの幅も広げていく。そんな浜通り営業所が、「ここに矢野口自工があって良かった」と言われる存在になるのは、そう遠くない未来なのかもしれない。
広大な土地を持つ整備工場
メンバーへの指導にも力を入れる
東日本最大級の塗装ブース

工場を率いる重圧と楽しみ

工場長としての思いを教えてください

工場を束ねる立場としての重圧も感じていますが、任せていただいたからにはその期待に応えたいという思いが強いですね。福島での仕事が増えるにつれて、部下も増えてきています。彼らをどうやる気にさせて、どう工場としての収益を上げていくのか。そういうことを常に考えていますね。やはりやるからには「楢葉に矢野口があって良かった」とお客様から言われる存在になっていかないといけないと思います。また、お客様に対してだけでなく、社内に対しても、本社に負けないような事業所にしていきたいです。

矢野口社長はどんな人ですか?

一言で言うとバケモノですね(笑)。行動力やリーダーシップがすごくて、日々学ばせていただいています。福島にいてくださることも多いので、「リーダーとはこんな人」ということを教わることが多いです。部下をどう育てどう引っ張るか、目標をどう達成するかなど、考え始めるとおもしろいです。
今は福島ができたところなので福島を中心に目をかけてくれていますが、早く心配をさせないようになっていきたいですね。僕と坂本所長で福島を引っ張って、社長から「福島は2人に任せた!」と言ってもらえるようになれるよう頑張ります。

学生に向けてのメッセージをお願いします

矢野口自工で扱っているのは特殊な車両ばかりなので、毎日が楽しいです。もちろんそれゆえに大変なこともありますけどね(笑)。会社として「まずはやってみる」ということをすごく大切にしているので、「どんどんいろんなことに挑戦していきたい」という思いを持った人にはオススメな会社です。
僕の行っている整備という面で見ると、おそらく学校では扱ったことのない車両がほとんどだと思います。「人とは違ったことがやりたい!」「未知のものに挑戦したい!」といった思いのある人と一緒に働けると嬉しいです。

監修企業からのコメント

特装車業界において知らない人はいないと言っても過言ではない矢野口自工様。
矢野口社長がどんな思いで会社を、そして業界を牽引してきたのかがひしひしと伝わってきました。
また、赤羽工場長のような若き力が台頭しており、今後のさらなる発展からも目が離せません!

掲載企業からのコメント

社長に就任してから30年以上、自分が引っ張らなければという思いでやってきました。
その思いが次世代のメンバーにも伝わってきているのかなと感じます。
これからは少しずつ彼らに仕事や役割を任せつつ、
新たな矢野口自工をつくっていきたいと思います。

矢野口自工株式会社
1952年 運輸省認定一種重整備工場の認定を得て、矢野口自動車工業株式会社を東京都品川区南大井に創業した。
1959年 現在の「矢野口自工」に社名変更。
1976年 東京都世田谷区に展示場を開設し、車両販売部の発足
1982年 吸引車を活用した工事請負部門として、プラント部の発足。
1985年 現在の代表 矢野口智一は、父守男の急逝に伴い、23歳で三代目代表となり今日に至る。
1990年 本社、整備工場を現在の大田区城南島に移転。吸引車を主体としたレンタル部の発足。
2008年 ドイツ・LADOG社からベース車両として第一号車を輸入し、架装するアタッチメントを兼松エンジニアリング株式会社に依頼し、グリーンカットマシン”アライグマ”が誕生した。
2012年 本社の隣接地と建物を購入し、全部門を本社に集結しワンフロアー化を図る。 大田区京浜島に新たな車庫を開設。
2013年 福島・浜通り地区でLADOG車とNothhelfer車を用いた道路除染工事に本格参入。
2014年 福島・浜通り事務所(楢葉町)を開設。
2018年 ジーエス管業株式会社をグループ化。
2019年 福島浜通り営業所開設(福島県楢葉町)。
創業年(設立年) 1952年
事業内容 ・特装車の整備/販売/レンタル ・特装車を用いた工事
所在地 東京都大田区城南島4-5-8
資本金 3900万円
従業員数 42名
会社URL

矢野口自工株式会社