太田自動車から1世紀新たな100年への布石
タマチ工業株式会社 取締役会長 太田邦博
タマチ工業株式会社は、1962年の創業から半世紀に渡り、日本のモータースポーツ界に貢献してきた歴史ある企業だ。そして、実はタマチ工業の前身にあたる太田工場(1912年の創業)から数えれば、1世紀もの伝統が積もり積もっている。戦前から日本の自動車、カーレース業界を牽引してきた同社は、今でも、世界的に有名な「スーパーGT」や「スーパーフォーミュラー」などのカーレース大会に出場する車両の、心臓部に当たるエンジンの重要部品を製作するなど、活躍を続けている。今回は、そのタマチ工業を創業期から知っている太田会長に、同社のならではの社風や強み、そして米内社長への思いをお伺いした。
伝統の継承と、未来への挑戦を可能にする革新企業の本質
何よりもまずアクション、即断即決の行動力
「理論や考えよりも先に、行動が先にある。これがタマチ工業の社風であり精神である」と太田会長は語る。これまでの歴史の中で、技術的、設備的に難しい依頼を顧客に依頼されたことが少なからずあったという。だが、「うちではそれはできません」と言ってしまっては成長の機会を逃してしまう。それ故、同社では、どんなに困難な依頼が顧客から来たとしても、できる理由を探し、依頼を受けてきた。「そうすると社員は、受けてしまったからにはやるしかない、と一致団結して即行動します。だから、たとえ問題が起きても皆で力を合わせて乗り越えることができるのです」と、同社の殻を破り続ける成長の根幹たる強みを太田会長は振り返った。組織のレベルに合わせた行動・戦略を考えて行動するのではなく、時代に、顧客に求められているモノを実現するために常に行動を続けてきた同社の社風は、たとえ時代が変わっても変わることなく引き継がれていくだろう。レーシングカー一筋、タマチ工業の圧倒的な技術力
戦前に同社の前身となるオオタが製造開発したレーシングカーは、報知新聞社主催第一回全日本自動車競技大会(1936年)で堂々の優勝を飾るなど、日本のレーシング界の花形として創業当初から注目を集めていた。時代の変遷の中で、現在では同社がレーシングカーそのものをつくることはなくなったが、同社が特に得意としていたエンジンや足回りや、レーシングカーにとっては命であり、最先端かつ精密さが要求されるカムシャフトなどの重要部品に特化したメーカー企業として、地位を確立している。タマチ工業の技術力を結集したカムシャフトは、エンジンの性能、レースタイムの部分で他社を寄せ付けない。「難しい加工やスピードが求められる案件は、大手企業様においてもほとんど私たちのところに案件を持ってきてくださいますね」と太田会長は話す。大自動車メーカーからの厚い信頼に裏打ちされた自動車部品加工ノウハウが同社の絶対的な武器だ。米内社長が刻む、これからの「未来歴史」
「未来歴史」この言葉の意味は、現在を未来の視点から捉え、「未来において評価できるような現在」をつくれるように行動することが大切であることを意味する同社が大切にする言葉である。数名の小さな町工場企業を、大手自動車メーカーから絶対的な信頼を集める100名企業へ成長させた太田会長は、まさにそれを実践してきた張本人だ。そして、これからのタマチ工業の「未来歴史」を刻んでいくのは、「米内社長だ」と太田会長は改めて語った。能力や人望など経営者としての高い素質を見込んでの指名であったが、さっそく、米内社長が3年前から公言していた「2017年に売上20億円を達成し、次のチャレンジができる体制を作る」という目標を2016年現在、早々に達成し、太田会長の見立てが正しかったことを証明している。米内社長がこれからつくっていくタマチ工業について、太田会長は「あとはすべて米内社長に託したので、彼がどのように当社を経営するのかに尽きるのではないでしょうか」と全面的に米内社長へバトンを託したかたちだ。米内社長がつくるタマチ工業から、今後も目が離せない。
2010年日本自動車殿堂にて
オオタOC型と太田会長
タマチ工業の西富士工場外観
太田会長が語るタマチ工業の現在・過去・未来
―太田会長の入社当時の様子を教えてください
入社の頃から話をしますと、大学の理工学部を卒業して、初めは化学の会社に入社したのですが、目に見えないものを作ることに、どうしても面白さを感じられませんでした。小さい頃からすぐに行動して、目に見える何かを作り上げることが好きで、ものづくりをやろうと決めていましたから、父がやっていた弊社を勧められて、ありがたく入らせていただきました。私が入社した当初は、従業員数わずか3名と、まさに家族経営の町工場でしたが、最新の設備を取り揃えたり、作ったことがない部品の製造に積極的にチャレンジしていました。当時から培われてきたチャレンジ精神があったからこそ、今の大手自動車メーカー様から信頼を集めることができ、当初とは比べ物にならないほど、会社を成長させることができたのだと思っています。―米内社長は社内においてどのような存在ですか
今でこそ社員数100名の会社になりましたが、米内社長が入社した時は、まだ社員数も10数名、製品も手で作っていた時代でした。それ故、米内社長は、タマチ工業の成長と一緒にここまで成長してきた存在だと言えます。もともと、人と深く関わること、行動力は光るものがありましたが、タマチ工業に入社してからは、さらに経営者としては欠かせない責任感、チャレンジ精神も身に着け、成長してきましたから、早い段階から、米内社長は私の共同経営者のような存在だという目線をもってやってきました。しかも、米内社長は私が考えもしなかった夢を沢山持っています。ここから先、未来のタマチ工業を作る存在となるのは米内社長です。米内社長が刻む、タマチ工業の「未来歴史」を見るのが楽しみですね。―会長のこれからの目標を教えてください
私が今、個人的に進めていきたいのは、タマチの高度な技術力を活かした新事業の開拓ですね。レーシングカーの極限まで精密なエンジン部品を製作する中で培われてきた、タマチ工業の圧倒的な技術力を、医療、介護の分野にもどんどん応用していきたいと考えています。もちろん、人の命を左右する医療機器の開発は、並大抵の技術力では実現できることではありませんが、今まで培ってきたタマチの技術力をもってすれば不可能ではないでしょう。また、介護の分野では、歩行補助機の開発をしていくつもりです。これは目標というより、私の夢ですね。必ず形にして、実現させてみせます。次世代のタマチ工業へ挑戦の歴史は続く
タマチ工業株式会社 代表取締役社長 米内淨
2014年に社長を引き継いだ米内社長。半世紀以上の歴史を紡いできたタマチ工業を引き継いでいく上で、米内社長が大切にするのは、創業の頃から代々受け継がれてきた、全社を挙げて「挑戦する姿勢」。事業の面においても、社内の組織づくりの面においても、同社がこの「挑戦する姿勢」を何より大切にされていることが、取材の中でも溢れんばかりに感じられた。今回は、タマチ工業の今後の事業・組織の両面での米内社長の挑戦的な戦略をお伺いした。加えて、米内社長を中心としたタマチ工業が今後成長していくにあたって、改めて米内社長が社員の方へ伝えたい思いと、生の声をお聞きした。伝統の承継と挑戦の未来を担う社員の思い
即断即決の入社決定、太田会長と米内社長の出会い
車好きの父と従兄弟の影響で、車に関わる仕事がしたいという強い思いがあった米内社長だったが、OA機器の会社の営業職へ新卒で入社した。「けれど、そこでは私が本当に売りたかった大きい機器に携わることはできませんでした」と感じた米内社長は、変わるのであれば一刻も早いほうが良いと心決め、求人を見る中で出会った会社の中の1つが、タマチ工業だった。初めは同社の事業のカーレースの華やかな魅力に惹かれ、面接に臨んだという。「太田社長(現太田会長)と面接をして、その日のうちに、いつから来れる?って聞かれましてね。そのスピード感にも魅かれました。電光石火で決まって、働き始めました」と入社時のエピソードを振り返る。入社後は前職の経験も生かして営業をしながらも、当時最先端の装置であった3次元測定器の主任を務めるなど、オールマイティーな活躍ぶりで社内を牽引してきた。即断即決の行動力と、仕事に対する圧倒的な熱量で、太田会長からの信頼も厚い。米内社長の社長としての挑戦は始まったばかりだ。タマチ工業「攻め」の戦略
米内社長の考える、これからのタマチ工業は、モータースポーツ業界を支える一サプライヤーという枠にとらわれずに活躍できる存在だ。現在の同社のパーツ生産の事業を基軸に、より広範囲にモータースポーツ事業を展開していくということに加え、新規事業の開拓にも余念がない。既に、次世代自動車や医療などの分野でも評価されている。「良い意味でもっとでしゃばりたい」と米内社長は真剣なまなざしで語った。そして、これを実現するには、社員の日々の進化と成長が必要不可欠だ。そのために米内社長は、敢えて従業員のレベルに合わない設備投資、機械導入を行っている。「攻めの設備投資は、社員にももちろん負荷がかかりますが、最近では自ら手を挙げる社員が増えてきています」攻めの設備投資が、社員と事業のレベルを引き上げる革新的な手立てになっている。身の丈に合わない仕事を敢えてさせることで、社員一人ひとりのレベルを向上させ、その実力をもって新規事業を開拓していく。これが、米内社長の攻めの戦略だ。強固な組織基盤の構築こそが、タマチ工業の未来を創る
2014年に社長に就任した米内社長を中心とした組織づくり。これが、事業戦略とともに、同社の重要な胆となるポイントだ。同社の成長の過程で、米内社長は未来を見据えて、自身で幹部育成、チーム育成を行ってきた。故に、既に社内のキーパーソンは確立されており、米内社長のイメージも明確だ。「そもそも幹部がいないという企業の話も聞きますが、私自身が育ててきた者も多いので、信頼関係もしっかり構築されています」と米内社長は自信を見せる。加えて、現場社員一人ひとりがレベルアップすることで、さらに成長・発展していけるはずだと米内社長は意気込む。そのための施策の1つが、大胆なジョブローテーションだ。他部署を知ることで、部署間の連携の強化、さらには惰性からの脱却をするきっかけをつくることができる。まさに一石二鳥の施策だ。強固な幹部陣、そして組織分野の強化がなされた暁には、同社の基盤はより強固なものになるだろう。
ル・マン24時間レースにて
従業員と記念撮影
測定中のシリンダーヘッド
米内社長が伝えたい、社員の方への思い
―社員に対して大切にしてほしい心がけを教えてください
社員一人ひとりが主体的に、当事者意識をもって会社に向き合ってもらいたいですね。その1つのきっかけとして、1年を通じて、社内改善提案制度という仕組みがあり、研鑽活動をしています。社内で改善したほうがいいと思うこと、変えたいことをレポートにして社員に出してもらう制度です。また、皆に楽しみながら取り組んでもらいたいという思いから、優秀な改善提案には賞金を出すということもしています。人により差はありますが、出す人は本当に沢山出してくれます。改善提案がレベルアップして稟議書という形になることもあります。中には決済に悩まされるものもありますが、社員一人ひとりが自らの会社を良くしようと当事者意識をもって発信してくれた貴重な声なので、なるべく会社に反映できるよう、私も経営者として努力しています。―米内社長が絶対に大切にしたい経営者としての考え方を教えてください
経営者と社員が共感を得られるようにする、ということです。これは誰かができれば良いという話ではなくて、社員全員がこの目線をもって欲しいという意味がこもっています。これは必ずしもお客様に対してだけ、ということではなく、社内においても大切にしたい考え方だからです。例えば、ただ図面を渡すのと、何のための図面なのかという目的を丁寧に伝えた上で渡すのとでは、共感、さらには信頼関係にも大きな差がでますよね。この、共感を得る、ということを社内の習慣、さらには文化にしていければ、自ずと経営者と社員が共感できるようになり、それが社の発展にもつながっていくのではないかと考えています。―社員の方へメッセージをお願いします
先ほども少し話しましたが、タマチ工業は今まで、攻めのための設備投資を徹底的にやり続けてきました。従業員からすれば、新しい機械、設備が入るということは、機械の使い方から何から一から学びなおすということなので、非常に負担がかかる部分です。ただ、「嫌だな、きついな」と思うことは、それだけ成長の機会があるということであり、だから、従業員に今後も成長し続けてもらうためにも、攻めの設備投資は続けていきます。技術の進化や、時代が求めるニーズに合わせて、タマチ工業もまた、進化、変化していかなければいけません。タマチ工業の進化は、社員一人ひとりの進化・レベルアップを通じて成し遂げられます。皆でこの先の未来をつくっていきましょう。 タマチ工業株式会社
1912年 太田祐雄により巣鴨郊外甲塚に太田工場を設立。
後に太田自動車製作所に社名変更。
1936年 報知新聞社主催第一回全日本自動車競技大会にて
国産小型レースにて優勝する。第三回にも優勝した。
1946年 祐雄の三男太田祐茂が独立しオオタ商会設立。
戦後の物不足の中、自動車修理工場を開く。
以降、公営オートレース用レーシングカー設計製作、チューニング等を
行う。この頃高速機関工業(株)は業績不振となり、東急系くろがね自動車
工業(株)に吸収合併となる。
1959年 くろがね自動車工業(株)の子会社、くろがね小型自動車製造(株)を設立。
祐茂は技術担当役員に就任のためオオタ商会閉鎖。
1962年 オオタ商会があった港区田町八丁目にタマチ工業(株)を資本金200万円
にて設立。
1966年 フォーミュラージュニアを公営ギャンブルレース用に設計製作。
1969年 360cc搭載ミニフォーミュラーカー、ニアルコ製作販売。
当時モータースポーツ界で話題となる。
1972年 現会長 太田邦博入社。
1977年 太田邦博、代表取締役に就任
1978年 全自動ナライ式ノートン製カム研削盤導入。
1981年 本社工場を現在地品川区南大井へ移転。
CNCマシニングセンター、CNC旋盤、平面研削盤導入。
1991年 資本金1,000万円に増資。第二工場(現A棟)を静岡県富士郡芝川町に
移設。
大隈豊和製門型CNC5軸加工機VMP-8、ミツトヨ製三次元測定機
B706を設備。
2002年 西富士工場、隣接敷地へ拡大、D棟建設。
ヤスダ製横型5軸マシニングセンターYBM700NTTを導入。
さらに高精度の要求に対応する体勢を整える。2000年に続き、
タイトル獲得を記念して表彰を受ける。
2007年 ROFIN社 レーザー加工機導入 環境認証KES取得。
2008年 「明日の日本を支える元気なモノ作り中小企業300社」に選ばれる。
2009年 品質保証規格 ISO9001:2008取得。
2010年 太田祐雄 2010日本自動車殿堂入り。
2012年 タマチ工業50周年、太田自動車100周年を迎える。
2014年 太田邦博 取締役会長に就任。
米内 淨 代表取締役社長に就任。
後に太田自動車製作所に社名変更。
1936年 報知新聞社主催第一回全日本自動車競技大会にて
国産小型レースにて優勝する。第三回にも優勝した。
1946年 祐雄の三男太田祐茂が独立しオオタ商会設立。
戦後の物不足の中、自動車修理工場を開く。
以降、公営オートレース用レーシングカー設計製作、チューニング等を
行う。この頃高速機関工業(株)は業績不振となり、東急系くろがね自動車
工業(株)に吸収合併となる。
1959年 くろがね自動車工業(株)の子会社、くろがね小型自動車製造(株)を設立。
祐茂は技術担当役員に就任のためオオタ商会閉鎖。
1962年 オオタ商会があった港区田町八丁目にタマチ工業(株)を資本金200万円
にて設立。
1966年 フォーミュラージュニアを公営ギャンブルレース用に設計製作。
1969年 360cc搭載ミニフォーミュラーカー、ニアルコ製作販売。
当時モータースポーツ界で話題となる。
1972年 現会長 太田邦博入社。
1977年 太田邦博、代表取締役に就任
1978年 全自動ナライ式ノートン製カム研削盤導入。
1981年 本社工場を現在地品川区南大井へ移転。
CNCマシニングセンター、CNC旋盤、平面研削盤導入。
1991年 資本金1,000万円に増資。第二工場(現A棟)を静岡県富士郡芝川町に
移設。
大隈豊和製門型CNC5軸加工機VMP-8、ミツトヨ製三次元測定機
B706を設備。
2002年 西富士工場、隣接敷地へ拡大、D棟建設。
ヤスダ製横型5軸マシニングセンターYBM700NTTを導入。
さらに高精度の要求に対応する体勢を整える。2000年に続き、
タイトル獲得を記念して表彰を受ける。
2007年 ROFIN社 レーザー加工機導入 環境認証KES取得。
2008年 「明日の日本を支える元気なモノ作り中小企業300社」に選ばれる。
2009年 品質保証規格 ISO9001:2008取得。
2010年 太田祐雄 2010日本自動車殿堂入り。
2012年 タマチ工業50周年、太田自動車100周年を迎える。
2014年 太田邦博 取締役会長に就任。
米内 淨 代表取締役社長に就任。
創業年(設立年) | 1962年 |
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事業内容 | タマチ工業では、自動車メーカーからのモータースポーツ用(レギュレーションの中でのハイパフォーマンス追従)カムシャフト、シリンダーヘッド、周辺部品を中心に、次世代低燃費エンジン開発のための試作にも大きく関わっています。 それ以外に、補給用部品製作(少量~中量産)、ライン立ち上げ用に工程毎に作り込む中間材製作、量産向けトライ、テスト(工具、加工条件表等を持ち込んで頂いた上での設備使用の提供)等、様々なニーズに対応しています。 更に、2008年より医療機器メーカーとの共同研究を開始、2009年と2010年に経産省から戦略的基盤技術高度化支援事業でステントの研究が採択されることによりさらに技術をレベルアップ。現在では海外製品のステントよりも品質が良いと評価されています。また、先端が曲る腹腔鏡手術の為の鉗子の設計・開発など、医師のアイディアやニーズを製品として共同開発から生産までお手伝いしています。 |
所在地 | 東京都品川区南大井4-10-2 |
資本金 | 2,000万円 |
従業員数 | 124名 |
会社URL |
監修企業からのコメント
タマチ工業は、太田自動車までさかのぼれば設立100年の伝統をお持ちの、由緒正しき中小企業。一方で、既存の事業を守りつつも、常に先手先手で攻めの手を打ち出す実にアグレッシブな会社でもあります。機会があれば、実際にタマチ工業の手がけた車が出場するレースも見てはいかがでしょうか。
掲載企業からのコメント
私が社長に就任してから、このような形で取材を受けることはなかったので、非常に有意義な機会でした。私自身が考えていることの再確認にもつながりましたし、それだけではなく、社員達にもこちらのサイトを見せることで、私の思いを伝えるきっかけにもなったのかなと思っています。このような機会を頂き、ありがとうございました。